論文を読む:その6?

珍しく数日のスパンで更新します。先日のエントリーに続けてライトノベル関係の研究本を読んでおります。

もちろん例会直前だからに決まっております。まだの方はぜひご登録ください。
http://www.contentshistory.org/2009/09/29/541/

さて、以前のエントリーでもいくつか紹介しましたが(これとかこれとか)、大学の紀要などでぽつぽつと発表されていたライトノベル研究がようやく「研究」と言えるほどのまとまりを持って私たちの目の前に登場してきたのは、やはり一柳廣孝・久米依子『ライトノベル研究序説』(青弓社、2009年)の出版に拠るところが大きいと思います。各論として文化的な視点、歴史的な視点、様々な既存の学問からの切り口、作品論と取り揃えられており、今後のライトノベル研究を行う上では、踏み台にしていかなければならない研究書であることは間違いありません。

そう、踏み台と書きましたが、読んでみた感想としては収録されている論文が短い。これに尽きます。普通の(と書くと変ですが)論文ですと、ここから加速度をもって論を展開しテンションが上がっていきます!というところで、まとめに入っていくのがもどかしい。もっと色々な話を聞いてみたい。

これが第2回例会をライトノベルにしようと思った動機でした。第1回例会開催以前から既に動いており、私どもの委員の知り合いの方などを頼って、発表のお願いをしていくと・・・気が付いたらライトノベル研究会の方3名にお願いをすることになりました。ライトノベル研究会の方が揃ったのは全くもって偶然のことです。というわけで、今度の日曜日の例会に来られる方はぜひとも『ライトノベル研究序説』をお読みになって来られると分かりやすいかと思います。本書には

山中智省「受容と供給の欲望-何を求め、何を生む」
井上乃武「ライトノベルと児童文学の「あいだ」-「主体性」の問題をめぐって」
大島丈志「野村美月『”文学少女”』シリーズ-『銀河鉄道の夜』から飛躍する文学少女」

と今回発表していただくお三方の論文が収録されております。

ライトノベル研究序説

論文を読む:その5?

というわけで、また日数が過ぎ去って、10月も半ばになろうかというときに更新となりました。「世界はコンテンツ文化史ではない」担当の玉井です。そして何よりずっと先だと思っていた本学会の第2回例会「ライトノベルと文学」が今度の日曜日に開催されます。

ご登録がまだの方はぜひどうぞ。

http://www.contentshistory.org/2009/09/29/541/

私個人は裏方としてどこかで何かをしているかと思いますが、当日ぼーっとしているはずもなく一応、聞く姿勢を見せるつもりです。門外漢ですけど。最近、仕事帰りの電車の中でラノベ研究の本を読むようにしています。ラノベは読みますが、研究としてはそれほど詳しくないということもあるので、例会に少し備えようかと思ったわけです。最近、読んだのは新城カズマの『ライトノベル「超」入門』(ソフトバンク新書、2006年)。個人的に『サマー/タイム/トラベラー』が印象的な作家ですね。

それはともかく、いや、本当に「超」入門ですね。スレイヤーズやブギーポップに注がついていますが、面倒なのでそこは読み飛ばしました。でも、ライトノベルという定義が曖昧なものに対して、何とか言語化しようとする姿勢は見事です。印象に残ったのは、今でいうライトノベルに分類される小説群が世に出てきた時に読者たちは既存のジャンルとは違う「前向きな違和感」を感じたということ。また、出版社や作家側としては「ライトノベルを作ろう」という意識でやっているのではなく、「面白いものを作ろう」という意識でやっているということ。書き手・売り手としてターゲットにしている層に買ってもらうために(お小遣いを使ってもらうために)間断なくリリースを重ねていくことによって作り上げられていったのが、現在の様相。というように作り手と受け手の両方のせめぎ合いの上で概念として漠然と出来上がってきたのがライトノベルということでしょうか。

しかし、この手の定義の問題で必ず出てくるのが「この小説はどう?」とか「あれは違う」とか「あれもあるではないか」というお話。議論としても学問としてもそこからの脱却というものが出来れば良いなとは単純に思います。

とこれは論文ではなく新書ですよね・・・論文を読む。新書を読む。

ライトノベル「超」入門 [ソフトバンク新書]

サマー/タイム/トラベラー (1)  ハヤカワ文庫 JA (745)

サマー/タイム/トラベラー2 (ハヤカワ文庫JA)

論文をよむ:その4

皆様。ロスジェネが失われた10年を取り戻すかのようにDSを縦にして丹下桜や皆口裕子と語り合っている日々をお過ごしかと存じますが、いかがでしょうか?私はまだドラクエ9をちまちまとやっています。

それはそれで宜しいかと思いますが、コーナーを3回で終わらせないために4回目に突入です。日々勉強ですが、それとは切り離されたこの気だるさを誰か打ち払ってください。気だるさ打ち払い令。

  • 諸星典子「『キノの旅』を読みながら「リアル」を考える」(『白百合児童文化』16号、2007年)

そういえば『キノの旅』の新刊発売も近いですね。と読んだ論文がこちら。「特集 リアルとは何か」の一つの論文です。内容は三つに分けられていて、最初のセクションでは『キノの旅』第1巻の内容解説。次のセクションでは、『キノの旅』は実世界に存在する何らかの事象を極端にデフォルメ化することによってストーリーが成立しているがゆえに、デフォルメ化の中で零れ落ちるものが数多くあるが、読者が作品に「リアル」を感じているがゆえにそれを補っている。最後のセクションは唐突に『星の王子さま』との比較がはじまります。『星の王子さま』は、読者にノスタルジーを感じさせ、そこから作品内の風景に接近するが、『キノの旅』は描かれていることを読者の既知のものに置き換え、リアルさを発見していくという内容。

そもそもリアルとは何か、という問いには答えていないというか、「あなたがリアルと思ったものがリアルです」といったトートロジー的な気がして、読みながら「ううむ」と唸ってしまいました。果たして『キノの旅』はリアルなのだろうか。そもそも寓話的であるがゆえにリアルということも難しいわけで、極端な話『我が家のお稲荷さま。』も同様の論理でリアルですと主張可能ですよね。いや、『お稲荷さま。』は町内という区切られた空間の中に妖怪や神を当てはめこんでいくので、そういう意味でのリアリティでしょうが。あと『星の王子さま』との比較は唐突でした。

何だか文句ばかりですが、これはそもそものお題が難しい。そういえば『学園キノ』の最新刊は読んでおりません。何と言いますか、もう読まなくても生きていける気がして・・・。

いや、アニメは毎週見ていましたが・・・下川みくにの主題歌は爽やかでした。

学園キノ〈3〉 (電撃文庫)

キノの旅〈12〉

キノの旅-the Beautiful world-I(廉価版) [DVD]

論文を読む:その3

気がついたら9月になっておりました。ブログのほうもご無沙汰しておりますが、適宜、更新を重ねていきます。多分、中身はないですが。それはともかく「論文を読む」コーナーも3回目。コーナーなんて作るのではなかったという後悔も覚えつつ3回目です。3回で終わるとカッコ悪いですよね。うん。

  • 山里裕一「迷える「アニメ」大国–振興施策としてのアニメ博覧イベント」(福間良明、難波功士、谷本奈穂編『博覧の世紀 消費/ナショナリティ/メディア』梓出版社、2009)

最近、読んだ論文です。広島地域で行われているアニメイベント「広島国際アニメーションフェスティバル」と「広島アニメーションビエンナーレ」を取り上げ、国や県の施策、同イベントに参加した人々のブログ記事などを分析しております。特に国・県・イベントが想定するアニメファン=家族・子供だけではなく、いわゆる「オタク」とされる人々の存在もあることでアニメファンが一枚岩ではなく、「得体の知れない文化に対して、国・地域は振り回されている感は否めない」(本書206ページ)とし、単にアニメイベントを行うことへのその危険性を指摘しています。

多分、このことはオタクの人であれば、十分に実体験で感じ得ていることではないでしょうか。「サザエさん」や「ドラえもん」を見ている人と「涼宮ハルヒ」を見ている人を同じアニメファンと単純に括ってしまうことは確かに危険なことだと思います。しかし、それ以上に面白かったのは、広島尾道を舞台にしたアニメ「かみちゅ!」が広島ではオンタイムでは放送されていなかったこと。私個人も地方出身なので、この感覚は体感しているわけですが、単純にアニメ文化というものも一面的ではないということです。それにしても「かみちゅ!」は後から放送されていたような気がしますが、気のせいでしたっけ?

博覧の世紀 消費/ナショナリティ/メディア

かみちゅ! 1 [DVD]

コミケお疲れさまでした。

昨日はコミケに初参加いたしましたが、委員の誰もが「20部ぐらい持って行くと、15部ぐらい余るだろうから、しょんぼりしながら紙袋につめて持って帰る」というのを想像していたというのに、午前中にて完売いたしました。ありがとうございます。買えなかった方にはただただ申し訳ありません。

また、会場にて差し入れをしていただきました東京工業大学の出口弘先生(画像にある飲み物をいただきました)、最新刊をいただきました「左隣のラスプーチン」の安倉義たたたさん(会長にお渡ししました!)、その他、足をお運びいただきました皆様、本当にありがとうございました。

今後とも本会をよろしくお願いいたします。一先ず御礼までにて失礼いたします。

明日はコミケに参加します。

皆様。

ブログの更新がすっかりご無沙汰になりました。ようやくお盆休みになってほっとしています。さて、お盆の真っ盛りに開かれるコミックマーケットですが、3日目の明日に参加いたします。詳しくはこちら

高いよね、とか、特典ないの?とか色々言われますが、参加することに意義を見出そうと・・・問題は売り子の確保が大変だということです。会長を筆頭に皆さん、買い物に行っていますし・・・。とりあえず何とかなるだろうという気分ですが、多分、そうもいかないような気がします。

何はともあれ、お近くを通ったら、ちらっと見てください。

論文を読む:その2

皆様。
続きました。たまには論文を読んでいますコーナー2回目。

  • 神山秀昭「言葉の解放-『魔術士オーフェンはぐれ旅』の作品研究から-」(『学芸国語教育研究』14号、1996年)

「魔術士オーフェン」と言えば、秋田禎信の大ヒットライトノベルなわけですが、何を思ったか昨年、作者のホームページ『モツ鍋の悲願』の雑記内にて「あいつがそいつでこいつがそれで」と題して後日談が書かれました。懐かしさに駆られて読んでいたわけですが、登場人物の全員が「あいつ」や「こいつ」とかで語られていくので、途中で混乱します。これは読み直そう!と思ったのが間違いというか・・・はぐれ旅全20巻、無謀編全13巻を通勤途中の電車の中でとか寝る前とか、ただひたすら読み耽っていました。そのため何かあるたびに私の脳内では「我は放つ光の白刃」とかコールされていましたが、もちろん口には出していませんよ。脳内ですよ。

さらには『エンジェル・ハウリング』とか『愛と哀しみのエスパーマン』、『シャンク!!ザ・レイトストーリー』(ロードストーリーも)などと読み進めてしまいましたが、それは別の話。一先ずオーフェンについて誰か書いていないかなと調べてみたら、世の中広いもので論文がありました。

内容としては児童文学研究において小川未明作品に対する評価が、「死」を取り扱っていることによるネガティブなものから、そのようなタブーが崩壊している現状へと変化しているそうです。そのような中でも子供向けの作品で「殺す」や「死」といった言葉が連続して使用されるのはなかったが、数多く使われる作品として登場してきたのが「魔術士オーフェン」シリーズであると定義付けています。そして特にオーフェン作品のなかで、ボルカンがオーフェンへと放つ脅し文句を一覧化し、彼の言動はいわゆる子供の「ごっこ遊び」の反映であり、字面の暴力性からは乖離し「実行性を持たない形だけの決まり文句」であるとしています。そして作品内に暴力的な言葉が多用されることで批判が出てくるだろうが、子供にしてみれば「氾濫する情報の一つにすぎない」と定義付けています。

感想としては、児童文学研究はよく分からないのですが、児童文学=ライトノベル(というかオーフェン・シリーズ)という図式が果たして成り立つのかどうか。また暴力的な言葉が多用される作品の初発が果たしてオーフェンなのか、というか「氾濫する情報の一つ」としている以上はそのほかのメディア(アニメ・映画・マンガなど)との比較の上、オーフェン作品を歴史的に意義付ける必要があるかと思います。が、もう12年前の論文なのですね。当時は今日的な意義でのコンテンツという言葉もなかったわけですし、何より論文内で「ライトノベル」という言葉が全く使われておりません。その当時の研究状況はこうして把握できますが、学界における空気までは何となくしか分かりません。既存の学問枠組みにあるものを議論として繋げていかなければならなかったのかもしれません。とはいえ、この間に研究も色々と進展していったようにみえて、実は根本の部分ではまだ変わっていないのかもしれませんね。しかし変わったといえば研究状況より、オーフェンですよ。何より終わったと思ったオーフェンが復活しようとは!

これで終わりと思うなよ!―魔術士オーフェン・無謀編〈13〉 (富士見ファンタジア文庫)

論文を読む:その1

  • 清水潤「「紙芝居」化する世界-「山海評判記」論-」(泉鏡花研究会編『論集 昭和期の泉鏡花』おうふう、2002年)

色々あって(というかコンテンツ文化史学会の紙芝居分科会、あれ?呼称は紙芝居部会?)最近、紙芝居に関する論文を読む機会が増えているのですが、この論文もそれによるものです。たまには紙芝居部会も活動しているよ!主に脳内で!というところを見せておきます。別に泉鏡花好きというわけではありません。それにしても図書館でこの論集を閲覧したのですが、同じ本棚に大量の鏡花関係の論文集が置いてあって驚きました。文学研究とはそういうものなのですね・・・。

さておき論文の内容は、前半と後半できっちり分けられていて、前半は泉鏡花の作品「山海評判記」に出てくる紙芝居師の妥当性検討し、後半はテクスト分析を行っています。前半では、作品の挿絵を担当した小山雪岱の後世の記録を参考にしながら、昭和4年ごろの小山にとっては紙芝居師がどのような存在か把握できていなかったことを指摘、また作品内で描かれている紙芝居師は東京市社会局『紙芝居に関する調査』(1935年)や今井よね編『紙芝居の実際』(1934年)と比較しても的外れではないことが把握されています。後半では紙芝居が作中で非常に重要な位置を占めていることを主張。特に紙芝居に関する登場人物らが次第に希薄になっていくのは、作中の現実の世界と紙芝居の世界が等価になっているからであるとしています。

という感じ。これまでの鏡花研究では、それほど重要視されてこなかった(のでしょう)紙芝居に焦点を当てたという意味では非常に面白いのですが、結局のところ実態把握ではないのでよく分からない。前半部分の最後で「結局、フィクションだし」的なオチを持ってくるのは、仕方がないのでしょう。あとは地域性か。小山が紙芝居師をよく把握出来ていなかったというのは、黄金バット登場以前なので仕方ないのかもしれませんが、しかし、泉鏡花は当然知りえたからこそ作品の題材にしたわけで、そこは地域差なのか単なる個人差なのか。

さて「その1」というタイトルをつけたので、「その2」をやらないといけないのでしょうか。

論集 昭和期の泉鏡花

ドラクエ9

すっかりご無沙汰となってしまいました。編集担当の玉井です。

例会が終わると気が抜けたようになっていた、というわけでもなく日常に追いやられていました。その例会ですが、発表者である土居浩先生のブログにてもこのように取り上げていただきました。また、iNSIDEさんにても、このような記事を書いていただきました。ありがとうございます。今更ながら言及して申し訳ありません。

さて、本日はドラクエ9の発売日ですが、見事にamazonが発売日に届けてくれたので、せっかくの土曜日を潰して数時間、プレイをしてみました。現在レベル12です。城にこれから向かうところ。この数時間の経験のみで語れば非常に丁寧に作られているという印象を受けます。

しかし、気になるのは、ドラクエ9に関するテレビ報道を見ていると、お客さんが渋谷のTSUTAYAに購入のために並んでいるところを目にする機会が多いように思えます。もちろん全てをチェックしているわけではありませんが、秋葉原は取り上げられていないのでしょうか。渋谷と秋葉原という2つの場所から想起されるイメージと様々な戦略が影響し合っているのかもしれません。

ドラゴンクエストIX 星空の守り人

発表者による第1回例会参加記

200906281028000

 

皆様。
編集担当の玉井です。といいますか、第1回例会で発表させていただきました玉井です。

日曜日でハガレンが放送されている時間だというのに足をお運びいただいた皆様、お話いただきました吉田正高会長、土居浩先生、色々と動いていただきました委員の皆様、本当にありがとうございました。おかげさまでこちらの予想をはるかにこえる60名という参加人数を記録いたしまして、例会としては非常に盛会なものになりました。こちらに当日の様子などが掲載されております。

既にネットを見ておりますと
y_miyakeさん
http://blogai.igda.jp/article/30158255.html
横えびさん
http://105.teacup.com/puyo/bbs/2985
伊奈正人先生
http://d.hatena.ne.jp/inainaba/20090630
などいくつかのレポートがあがっており、委員の皆でいそいそと読ませていただいております。そのほかのかたも書きましたよ!とご連絡いただきましたら(本エントリにトラックバックでも可)、にこにこしながら皆で読みにまいります。

というわけで発表者兼裏方でした私も当日を思い出しながら何か書いてみたいと思います。とはいえ当日は発表のレジュメ(50部しか用意していなかった!→あとで委員がコピー)+チラシや誘導用貼紙+ビデオカメラ用三脚+ノートPCとカバンに全部詰め込んで電車に乗ったのですが、あまりにも重過ぎて豊洲駅から会場に到着する前にへばりました・・・。行く前は「東のエデン」や「三月のライオン」の舞台だよな、ちょっと楽しめるかなと思っていましたが、それどころではありません。こちとらだてに運動しないオタク生活を続けてはいないのです。

しかし、委員の皆様がテキパキと動いてくださったので、会場に到着してからは物をカバンから出して「あー」とか思っているうちに設営が終わってしまい、気がついたら開場直前と相成りました。続々と席も埋まって、いよいよ会長挨拶です。細部は省きますけど、この会長挨拶は撮影しておりますので、そのうちYouTubeにあげるつもりです。だから会長はスーツにネクタイだったのです。

「ここに学会のurlが表示されると思います」

とか余計な発言は控えてください。会長!

続きまして土居さんのご報告。昨年の人文地理学会の大会にて私が江戸時代の浅間山の表象イメージに関する発表をし、土居さんがライトノベルに関する発表をなさったのですが、私は自分の発表そっちのけで土居さんのご報告をそれはもう楽しみにし、事前にメールを送り、当日は粘着のように食いついて質問しておりました。そこからの繋がりです。例会での発表はタイムリーに涼宮ハルヒの「エンドレスエイト」を取り上げていただきました。このように瞬発力のある報告には、さすがっ!とレジュメを見て思いました。そのような姿勢は見習わねば。しかし、ハルヒは当日、土居さんも仰っていたように、西宮北口駅前が再開発されます。
http://d.hatena.ne.jp/giolum/20090207
リアル世界を含めての動向も気になるところですが、「遅れてきたら罰金よ、罰金。団員にあるまじき行為だわ」的な発言をハルヒはどこですれば・・・とファンは考えるわけで・・・。

続いて私が発表。これは省きましょう。「かみちゅ!」の舞台である尾道と「朝霧の巫女」の舞台である三次を歴史学的手法で見直し、「場所」と「物語」の関係をあぶりだそうとしてみました。タイトルは事前に出していたものから変更して「「聖地」成立に関する一考察―「物語」と「場所」の連関性―」にしました。もう少し喋りが達者なら良いのですが・・・。

その後は討論です。多くのご質問をいただき本当にありがとうございました。意図せず「異界」がキーワードになって話が展開していきましたが、ライトノベルの異界をどう捉えるのかというのは非常に難しいですね。土居さんも発言されていたように我々にとって異界であっても、登場人物にとっては異界ではない場合も多々あります。『レンタル・マギカ』は異界かどうか。『日帰りクエスト』や『十二国記』は明確に異界が線引きされているが『涼宮ハルヒ』シリーズはどうか。などと皆さんの意見を聞きながら私自身つらつら考えていました。「聖地巡礼」に関しては、皆さんそれぞれにとっての「聖地」があるがゆえに、どう捉えるのかという難しさがあります。「オンラインゲームにおける聖地」というご質問も非常に興味深く、質問されたときはぱっと『Mのフォークロア』や『ソードアート・オンライン』が頭に思い浮かびましたが、受け答えは無難になってしまいました。会場に何名か来られていたゲーム学の方に答えていただきたかった点です。

そんな感じで、初めての例会ということもあり至らない点ばかりだったかと思いますが、それは次回以降に生かしていきたいと考えております。第2回例会は秋に「ライトノベルと文学」(仮)というタイトルで開催いたします。現在、発表者および日程を調整中ですので、決まり次第告知いたします。皆様、本当にありがとうございました。