2月25日(土)・26日(日)、立命館大学にて開催された日本デジタルゲーム学会2011年次大会に参加してきました。本学会の編集幹事をやっている私ですが、あちらの学会でも編集幹事をやっています。要は中間管理職ですね。スレイヤーズで言うとゼロス…ぐらい力があれば…。さて、DiGRA Japanですが、国内の大会としては2回目ですが、大変盛り上がりました。
(1)話題沸騰の「ゲーミフィケーション」
「ゲーミフィケーションとは何か」という特別セッションが組まれ、井上明人さん、藤本徹さん、深田浩嗣さんの3名が登壇し、それぞれの立場から「ゲーミフィケーションとは何か」にアプローチするものでした。しかし、藤本さんが「バナナはおやつに入るか論争」と同じと述べたように、三者の立場からある程度の志向性ある発言はされたものの、結局は「厳密な定義をしても仕方ない」ということを述べることになっておりました。
ざっくり述べてしまうと、ビジネスの視点から社会にゲーム的なものを導入する、という「ゲーミフィケーション」は、それこそ金儲けの道具として、そして社会に大きく影響を与えられるのではないか、といったような学術研究というよりはビジネスチャンスとして希求される向きがあることは否めません。したがって、井上さんが別の場所で強く主張していたようにバズワードとして消費されつくし、そのまま消えうせるという未来もまた想定され、それに対し研究者の皆さんは避けていこうと動いているのが現状でしょうか。もちろん、些細な定義の問題に陥り、学術的な議論すら先に進まないという無残な状況も、様々な分野でよく見られることであり、その点では研究に関わっている人たちが無駄な派閥争いを起こさない(というより皆、知り合いという研究者数の少なさ…)という態度は、非常に前向きな研究状況だといえます。
(2)普遍化する「シリアスゲーム」そして「ゲーミフィケーション」
しかし、シリアス・ゲームやゲーミフィケーションといったバズワードに成りうる概念を背景とした研究は、既に多くのセッションで見られるものでした。「ゲームフォーヘルス」や「ゲーミフィケーション」といったタイトルのセッションが複数組まれ、それぞれが興味深い事例発表をしているというのは、最早、「シリアスゲーム」の概念が多くの研究現場や社会的な状況で散見されることの証左でしょう。ここからビジネスと学術研究との乖離を大きくしてしまうのか、それとも何か新しい展開があるのかは、今後によるものですが。
(3)若手の発表が多い
何はともあれ全般的に若手の人が多い。当然である。として学問の広がりを阻害するようなことは述べたくはないですが、これは仕方ないことかもしれませんね。そして知り合いだからかもしれませんが、専修大学の藤原正仁さんの研究室の学部生がどっと発表をしたのは非常に興味深いものでした。もちろん卒論なので、色々と足りない点やもっと突っ込んで調査して欲しいと思う点は多々ありましたが、印象論や恣意的な評論に陥っているのではなく、それぞれがきちんと調査し、データを開示した上で述べているという、そこらのダメ院生より、ずっとハイレベルの発表をしていました。藤原さんの苦労が垣間見られまして…。ただ、若手がチャレンジするというのは非常に良いと思いますので、次年度以降も大きく期待したいと思います。
(4)さて、人文学系は…。
どうやら毎年、講演は歴史的なものを喋ってもらうとなったのか、今年はゲーム研究をやっていると誰もが手に取るであろう『それはポンからはじまった』の著者である赤木真澄さんによる「アーケードはどのようにして生まれたのか」が行われました。エジソンから語るという素晴らしいもので、惜しむべきなのは時間が足りず日本の事例については端折られたことです。講演自体は大変満足でしたが、私個人が歴史学出身なので、個別発表で歴史学や文学といった分野の発表が聞きたかったですね。来年は誰か私とセッションを組みませんか?
(5)最後に
全部のセッションを回ることができたわけではないので、聞いていないものは紹介できませんが、twitter等のネット上の反応を見ますと概ね好評のようです。あと、4か月に1回のペースで髪を切っていたのが恋人さんの意向により2カ月に1回切るようになった三宅陽一郎さんの若手奨励賞受賞を祝って、更新を終えたいと思います。
カテゴリー: ブログ タグ: 世界はコンテンツ文化史ではない。 作成者: T.Tamai この投稿のパーマリンク